>成り立ちを学生に伝えてあげればいいんじゃないかな
私もそう思います。 初めに感じた事は彼(もふもふ氏)私例に対し
「なんだよこれWikiの記述でしょ? 」と返しました では何故そう返したのか?
Wikipediaをまず否定から入って本質を見ていないってことです その表れとして
「レポートはWiki丸写しだし、だから何って感じですよ。」
にあります。 で彼との違いはどこにあるのか それは情報の蓄積量と経験値の差に過ぎません
恐らく彼は自分の保有する知識を学んだ・得た情報元と合致するものなら不満はなかったでしょう
単なる情報元の違いに過ぎないのです なら何が違うのかそれが経験値なのです
教授と学生の差はそこと考えます。 教授はそこに確証を求め自分の考察を打ち出します。
その為のより多くの情報を集積する事でしょう
なら生徒にもWikipediaの文を提示した生徒に経緯と本人の考察とどういう考えがあってそれが正しいのであるのかと言う部分を見るべきではないだろうか?
私がWikipedia文を借り投稿したのは何も根拠ないのでなく『作る』という定義を把握し
それによって正しい表現と理解したからです
人すべてが先人が作った知恵から学び知識として保有するこれは教授だろうが学生だろうが同じ事
>例えばスティーブ・ウォズニアックのような人の前で「PCを作った」と言えるのかってことです。
言えるのかと言うのも個人の主観で勝手な概念に過ぎません
もしスティーブ・ウォズニアックが日本に来てパーツ群で組み立てたPCをなんと読んでいるのか
何の名称で呼ばれているのかを知った・学んだ場合恐らく何の抵抗もなくその名称で他者に伝えるでしょう。
>台湾の某パーツメーカーの方と飲んだときに苦笑されたのを思い出して
自分の概念の中に『自作PCは自作ではない、恥ずかしい言葉』があり、そう決め付けている表れ
自分の概念を作り出してしまっているだけなのです。 まっ言ってしまえばこれも私の主観なんだけれども・・・
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